●ジャンプからマガジンへということで、雑誌の違いで作風を意識したりは?


ない。
原作者だから。
俺は漫画家によってどんな絵にも変わるわけでしょ。
なんてのかな…、色がないわけだから。
漫画家さんの絵によって、俺ってのは何にでも…、
そのへんが、ほら、ちっちゃいときからカメレオンとかさ、
ネズミ男とか言われてる素晴らしいところでしょ(笑)。

別に、自分の色や臭いがないわけだから、
相手次第でなんでも書きまっせだから。
だから、違和感まったくないし…、
集英社の専属を嫌って、他も書きますって言ったのも、
もちろん、それが原因だから。
あらゆるところでやりたいからって…。

それは、俺の中の野心でもあるし、欲望でもあるし、
やっぱり、自分の才能に対する挑戦かぁ?
自分の才能どこまであるのか見極めようっていうのがあるからね。
そうすると、1誌にいるよりは2誌3誌やったほうがいいわけだから、
そういうのって、どうせ入った道だったらってのがあるでしょ。


●この雑誌にはこういう作品という感じで狙って書く作家さんもいますが

ないね。
やっぱり、担当編集と打ち合わせで、何が面白いか、何をやるかって…、
その雑誌云々というよりはやっぱり面白いかどうか。
もちろん、担当編集がその本に何が必要かってことで、
俺のところに話を持って来るわけだから。
それに俺が乗るかどうか、書けるかどうかってことだよな。

●講談社で初めての連載作品は?

1974年の『剣とバット』。
少年マガジン時代は、ほとんどずっと同じ担当だったと思う。
(『黒死鳥4444』を除けば)

【編集メモ】

* 『剣とバット』1974(S49)年 18・19号〜32号 週刊少年マガジン 漫画/大東豊治 
  剣道を何よりも愛す古い城下町で、名門復活を目指す野球部を描いた高校野球漫画。

いかにもその編集が好きそうな話だろ!

(先生自体は?)
面白かったよ。
城下町って言うのにすごくあこがれてて…、
俺、田舎の百姓の、そういう城がないところの出身でしょ。
そうすると城下町の生徒って…、旧制高校とかさ、旧制中学とかさ、
なんかすごいあこがれるわけよ。
やっぱり…、育った青春にさ、背景があって…、
そういうところで青春を過ごしてる子供達っていうか若者達、
それを書きたかったのよ。

城下町っていうアイデアはあったのよ。
それで面白いかもしんないねって、始まった話じゃないかな。
とにかく、城下町の青春を書きたかったの。
すごいサムライ的なイメージがあるじゃないか。
そういう話って担当が大好きだから…、そう記憶している。

それじゃあ、いこうって始まったんだけど、
たしか、何回かで編集とケンカして辞めてるよね、10回か11回目くらいに。
あなたの言いたいことはよくわかるけど、
俺にはそれは書けないって(笑)。

その編集とはね、最初はノリノリにやるんだけど、
必ず最後は、あなたの言うことはよくわかるんだけど、
俺にはまだそれを書ける能力はないってケンカで辞めてますね(笑)。

漫画家の大東さんは新人。彼がまだ21、22。
俺は26、27で、ちょうど4つ5つ下だったんじゃないか。


●『リングのタカ王

【編集メモ】

*『リングのタカ王』 1975(S50)年 別冊(月刊)少年マガジン2月号〜11月号 漫画/桑田次郎  『月光仮面』、『エイトマン』などの巨匠と組んだプロレス漫画。

それは、月刊少年マガジンで別の編集との作品。
その人が来て、桑田次郎先生とやらないって。
えーっ、桑田先生? 大家じゃないか…、うーん。
でもプロレス物だったから面白いかもしれないってやったけど、
短命だったよ。

そのころは、『ドーベルマン刑事』もやったよね。(第3回目参照)
俺、こう考えると『ドーベルマン刑事』出る前にやっぱり下敷きあるね。
けっこう勉強してるは、いろんな。
ジャンプでは『ピンク!パンチ!雅』やってるし、
マガジンでは編集に鍛えられてるし、大家とも組んでるし、
やっぱり、なんだかんだ言って『ドーベルマン刑事』行くまでに、
フロックで出たんじゃなくて、けっこうもまれ込んでるね。


●新人コンビの連載の次に大家とのコンビで連載。
 原作を書くうえで意識の違いはありましたか?


いや、まったく意識しないね。
ただ、やっぱり一度名を成した人だから…、
ある意味では…、いいのかな俺でみたいな感じはあるよな。
でも…、書き出してしまうと意識しないからね。
新人だろうが、大家、ベテランの人だろうが、
やっぱり俺の原作は俺の原作だから…。

あるとすれば、俺、意外とそこまで原作者として認められてきたのかな
っていう感覚はあったかもね。
ずぶの素人、そういう原作者を付けるっていうのは相手に失礼じゃない、
ある意味では。

それじゃあなくて、一応しっかりした原作書けますよ
ってことで付けてるはずだから。
そういう意味では俺の中で、
原作者としてはひょっとしたら認められかけてるかな
って感覚はあったかもね。
それが、一番うれしかったかもしれないね。

あとはベテランの作家さんが、
なるべく新しい人を付けてくれって言ったかもしれないね。
それはよくわからないけど…。

ただやっぱり、そういうふうに付けられたってことは、
少しずつ、あー、みんな原作者として認識してきてくれてるのかな
ってのはあるよな、うん。

だから、やっぱり1973年、1974年、このあたり。
俺、自律神経失調症になっちゃうくらい働いているんだよな。
自律神経になったってことは相当真剣にやってたってことよ、いろんなものを。
で、1975年あたりから治ったわけだから。
もう、『ドーベルマン刑事』のときにはけっこう治ってたから。

この73、74年が一番きついときだから…。
やっぱり、講談社の担当には(笑)。
やっぱり、修業時代、一生懸命書いてる時代には、
自律神経失調症になってるね。


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